はじめに その3

はじめに3を書くことになった。

定年間近であるこのとき、現社の再雇用で働くことに決めていることは、3年前からは想像もできない状態になった。年金制度や生活、資金など、回路作ったり部品買ったり、またバイクで、、なんてのを考えるとちょっと行き詰まりそうかな、ということもまぁあるのだが、ひとつ大きいのは上司が変わったこともあると思う。仕事の内容は変わっていないが、接し方や取り組み姿勢はいい方に変わったことは大きいと思う。まぁ、プロダクトの回路設計することは随分前からなく、これからもないと思うが、仕事上の回路屋でいられる時間が延長されたかな。

思い起こすと、初めて電気に触れたのは小学校1年ぐらいだったと思うが、当時は町内に100V電球をつけるソケットがぶら下がっていることがあり、そのうちの一つに電球がついておらずソケットだけがブラブラしていたところがあった。川で遊んでいたら上級生だったとおもうが、そのソケットに指入れてみ、おもしろいよ、というので入れたら、ビリっと体に衝撃が走った。周りのみんなは笑ってたけど、自分は結構びっくりしたなぁ、それが最初だと思う。小2の時は祖母の家に当時としてはめずらしく電動鉛筆削りがあった、いまでも鮮明に覚えているのだがカバーを開けるとエナメル線が何重にも巻かれたコイル(当然当時はエナメル線だとかコイルだとか知らないよ)が3つ入っていたの、こんなにいっぱい線あるから1本が切れても動くんじゃない?、って思った。で、切った。1本切ったら動いた。で、調子にのって別のコイルをもう1本切ったの、、そしたら動かなくなったの。

そして転機になったのは、小5で父が買ってきたラジオ製作キット、たしか、小型の1石トランジスタラジオだったと思う。これは、はじめに1にも書いたが、動かなかった。ここで初めて半田付け、電子部品や回路図に触れたのが、きっかけで俄然興味をひかれ将来は回路屋になるとこの時に決めていた。以降は初ラ、ラジオの製作、その先にはオーディオ/スピーカ自作など、ラジオBCL(QSLカードね)、ハムは高校でとったかな。サンハヤトのエッチングで基板もよく作ったよ。日本橋のデンデンタウンにも部品を買いによく行った。当時はじめて日本橋の吉野家で牛丼を食べたとき、めちゃうまかった記憶。カウンタだけで、二百円だった?記憶ないんだけど、金出したらでかい鍋からどんぶりご飯によそおうだけの店。

残念なことに、大学には電子工学科に行ったところまでは良かったが、自分はいろんなものを製作していてICや半導体の動作を経験でわかっていたことが枷になって、講義をまともに聴かなかった。それが、今の自分には1番の後悔だ。電磁気学と通信工学をきちんと真面目に聞いておくべきだったと、本当に悔やまれる。数年前から、今からでも遅くないと思い、参考書を少し購入し勉強を始めたんだが、頭に入っていかない。それでも、これは続けることだと思う、自己満足だ。。いまやったって、何かの役に立つわけじゃない。そもそも回路つくったり製作なんて全部自己満足さ、いまもそうだし、これからもそう。それでいいの。これからもそれでいいの。

最初に書いたように、来年から再雇用で働くことにした。給料は下がるがやることは変わらず、それに対して文句を言っている人もおおいだろうが、自分はそうは思わんな。定年こえたらジジー、ジジーの報酬は低いと当然だろう。全くおんなじ仕事をしていても、大卒、高卒で報酬が違うんだ、それにいっぱい仕事している人が報酬が多いとも言えない、だって一般職より部長や上長の方が報酬が高いでしょう、そりゃ責任がちがうぜとかいうかもしれんが、そりゃ考え方(捉え方)次第だろう。

とはいえ、昔ほどたくさん製作をしなくなるかなという予感はする。かなり視力が低下しており、半田付けが厳しい。